2017年1月29日日曜日

イメージの言語化と、言語化の為のイメージ化

以前ざーっとTwitterに書いたことを、改めて推敲したりしながらまとめ。

何年か前のことですが、後輩選手の一人に小説を読むように勧めたことがありました。

その選手は、人から聞いた話の内容をイメージとして頭の中に展開したり噛み砕いたりする能力に乏しくて、練習の意図やルールがわからなくてしばしば練習を止める原因になったり、こうした方がいいとかこの場面はこういうプレーが適しているよといったアドバイスを上手く実践出来ない選手です。

本人は必死に頑張っていて、それは見ていてよくわかるのですが、上記のような状態でとてももったいないなーと。
もちろん育った環境とか生まれ持った能力とか、いろんな要素があっての今なので、ある程度は許容するべき部分もあるかと思いますが。

頭の中にイメージを展開するっていうのはとても大事で、このルールであればこういうプレーが現象として現れるからこういうプレーをしなきゃいけないなとか、この練習をすれば試合中のこの場面で役に立つなとか、先を読んだり理解度を向上させるのに必要不可欠な要素です。

もちろん、フットサルに限らず日常生活でもイメージ力は大切です。
この行動によって起こる現象をイメージする。
この発言によって相手がどういう反応を示すか考える。
とても大事な要素だと思います。
だから、この先生きていく上で必要なトレーニングとして、小説を読むことを勧めました。
小説は頭の中にイメージを展開させないと絶対に読めません。

例えば、「公園に男の子がいます」という簡単な一文でも読む人によって公園の大きさや遊具の数、男の子の年齢や服装・顔つきなど、頭の中にイメージする光景はそれこそ十人十色のイメージがあると思います。

もちろんフットサルのトレーニングでもイメージ力を向上させることは出来ます。
認知力や判断力・決断力と言い換えたりすると思いますが、人はプレーを繰り返して経験を積めば積むほど、試合中に自分の経験したプレーの中からその時々の状況に最も適したものを選ぶようになるそうです。
それはイメージの蓄積によるものなので、ベテラン選手の方が判断力に優れているとか言われるのもわかりますし、天才と呼ばれる選手が同じプレーをあまり出来ないのも頷けます。

でも、ある程度の年齢になってからのトレーニングでは、フットサルに関してのみしか向上しないと思っています。
まあフットサル選手を目指しているのだからそれでもいいと言えばいいのかもしれませんが、自分の持論としてはある能力が乏しい人に対しては、その能力を向上させるアプローチをある程度多角的に行っていった方がいいと思っています。

自分の経験則から、2つ以上の刺激がその人の中でリンクすることで倍以上の効果があると勝手に思っているので(科学的な根拠は一切ありません笑)。
だからフットサル以外のことでアプローチしていくことが大切で、そのひとつとして小説を読むことを勧めました。
これが他のメンバーだったら、他のスポーツを見たりプレーすることを勧めたかもしれないし、何処かに行くことを勧めたかもしれない。
何が適しているかは人それぞれですが、フットサルが上手くなりたいからといって、フットサルだけしていれば上手くなれるかと言えば、僕はそうではないと思っています。
(モウリーニョはピアニストになりたい人がピアノの周りを走りますか?フットボールが上手くなりたかったらプレーするしかないのです。と言っていますが…笑)

文字は血肉となる、と思っています。
フットサルだけでなく絶対に人生を助けてくれるから本を読みなさい、と言って勧めました。
体力や技術は練習していればどんな選手でも少しずつ向上していきます。
でも、頭はきちんと鍛えないと発達しません。
ぼーっと生きてても頭良くはならないです。

頭の中のイメージを言語化することで咀嚼して理解することができる。
言語化は多分みんな普通にやっていることですが、とても重要なことだなと感じています。


Twitterに書いたのはこんな感じの話なんですが、ここからはそれに付随して思ったこととか。


指導者に必要なのは、自分が持っているイメージをきちんと言語化して、なおかつ指導するグループや人に対して言語を最適化することだと思ってます。
いくら自分の中に良いイメージがあっても、それを聞く側が理解出来るように言語化出来ないと、絶対に伝わらない。
イメージの言語化にも当然ボキャブラリーが必要なので、どれだけの文字を自分の血肉にしてきたかは重要。

でも、矛盾するようだけど、イメージを言語化する過程にもイメージ力が必要なんだよなーと、最近感じてます。
それが言語化の為のイメージ化。
イメージ→言語→最適化の流れの中で、一度言語に落とし込んだものを最適化する為にもう一度イメージに直していることが自分の中であって、そうすると次に言語に落とし込んだ時に違う言語で構築されていることがあります。
最適化という作業の中では「このグループに対してはこの過程を重視して説明」とか、「このグループに対してはこの部分は端折ってOK」とか、最初に出来上がった言語から修正するためにイメージと言語を照らし合わせている感覚です。
その時の「イメージ」は最初のイメージと違って今自分が対峙しているグループで起こり得るであろうイメージに変換されています。
最初のイメージはどちらかというと自分自身やテンプレ的なイメージが先行していますが、最適化の時はイメージまで最適化されている。
これは自分の中でイメージと言語が互いにリンクする瞬間なんですが、上の方で書いた「2つ以上の刺激」の話と同じで、自分の中に新しい知識理解として残ります。
だからグループ毎に違う(最適化された)言語として出てくるのかなと思っています。

何言ってるかよくわからないですね。。。笑

要するに自分の持っているものをいかに多くの異なる人やグループに対してわかりやすく説明するか、ということです。
これができて初めて指導者なのではないかなと。
ただ自分の知識をべらべらしゃべっているだけではみんな「?」です。
イメージを言語化すること。
言語をイメージ化して更に言語に直すこと。
これはみんな無意識にやっていることだと思いますが、自分はこれを磨いていこうと思っています。
自分はイメージをイメージのまま出力することができないので、これを磨いていくことが生き残る道だなと。

最近はこんなことを考えています。
よくわかんねぇこと言ってるな・・・と思った方は直接僕に聞いてください(笑


以上。お粗末様でした。